相馬藩と相馬の歴史

まめちしき

前の記事では相馬野馬追と相馬妙見三社について参拝と紹介をしました。そんな神社にまつわる”相馬”の歴史について見ていこうと思います。

相馬市の名前の源流である相馬氏は、源頼朝から奥州合戦の功績により、現在の相双地域を領地として授かりました。

そのあとは周辺の有力な勢力との争いや和睦を繰り返しました。自然災害にも遭う中でも、長く同じこの地を治め続けます。

1323年
初代相馬氏から数えて17代目となる相馬重胤が、現在の千葉県からこの奥州へ下向しました。

現在の南相馬市へ居を構えました。以降、鎌倉から江戸と永く同一地域を治める奥州相馬氏の歴史が始まります。

1500年代
伊達氏とは、領地が隣であったことから奥州相馬氏と対立や和解を繰り返しました。
そうしながらその土地を守り続け安寧を保ってきました。

1600年〜改易
第16代相馬藩主 相馬義胤は、天下分け目の関ヶ原の戦いに、中立の立場をとり不参戦としました。そのため、関ヶ原の合戦後、徳川から不参戦を咎められ、改易という職を没収されることになってしまいました。

しかし、第17代相馬利胤が優れた手腕で所領回復の交渉を成功させ、無事所領をとりもどしました。

1782年〜2度の大飢饉

天明の大飢饉(1783年〜)。これは東北に多大な影響を及ぼしました。中村藩領でも人口が大きく減少しその後には、天保の大飢饉(1832年〜)が各地を襲いました。

天明の大飢饉は藩の人口は 3 分の 1 ほどに減少させます。

しかし相馬歴代当主や福島の各藩の緊縮財政策が功を奏し、一人の餓死者も出さずに乗り越えることができたと言われています。

明治維新 1868年〜1871年
江戸時代末期の大変革期。福島の各藩は戊辰戦争の中心でした。会津や二本松をはじめ福島の各藩は新政府軍と戦いました。

しかし皆さんも知っていると思いますが、この戦いは新政府軍の勝利となります。

この混乱期の中でも相馬野馬追は「省略野馬追」と称し、規模を小さくしながらも続けられていました。

明治維新により領地を治める領主ではなくなり、相馬家の家中行事である相馬野馬追は消滅の危機に瀕しますが、翌年に太田神社の神事として再開されました。

このようにして相馬野馬追もまた綿々と続いています。

そして現代。東日本大震災とそれに伴う原発事故避難があります。

そのような大変な歴史がある相馬ですが、今年も相馬野馬追は勢いよく開催されました。

このような背景で現在も多くの人が復興に尽力するなか、人々の想いをさまざまな形で繋いでいけたらと思います。

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